今日も終日お寺めぐり

町田暮歩のお寺探訪記。お寺参りはこんなに楽しい!

地蔵大仏にお願いごと ― 福智院 ―

 

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仏さまに1つお頼みしたいことがありました。それをどの仏さまにお願いするべきか、頭を巡らせてみました。 

「○○にご利益がある仏様」「霊験あらたかな仏」という言葉をよく耳にします。私は方方お寺めぐりをして普段からたくさんの仏さまを拝んでいるので、それとはまた別に、各々の仏像に対する個人的な思い入れがあるのです。

健康の事や将来のことなど、仏さまを拝んでみてもなかなか叶わないような願いもたくさんあります。けれど自分の気持ちのあり方に原因があるような悩み事は、仏さまにお願いすればたちまち解決してしまう、そんなことも多いのです。それが仏さまを拝むことの一番のご利益だと、私は思っています。

今日の私の悩みはとても小さなものですが、けれどとても大きなものでもあります。この悩みを解決して下さる仏さまは、どのお寺のどの仏さまでしょうか。

頭の中であちこちのお寺の仏像がぐるぐると回ります。そして福智院のお地蔵さまのお姿が浮かんだとき、回転はピタリと止まりました。
この小さいけれど大きな悩みは、きっとあの大きなお地蔵さまが解決して下さるのです。

福智院は奈良の中心エリアのほど近く、興福寺や東大寺からもそれほど離れていない場所にあるお寺ですが、案外知られていないかもしれません。ならまちの外れ、路地を入ったところの小さなお寺です。

初めて訪れたのは三年前のこと。

そこに福智院というお寺があることはそれ以前から知っていました。黄色く塗られた塀の前に「地蔵大仏」と書かれた看板があります。私はそれがただむやみに大きい朴とつな地蔵像、おそらく江戸時代以降の作、であるような気がしていました。福智院の前の道はよく通りましたが、中に入ってみる気にはなりませんでした。

その日私はとても暇にしていて、目的もなくぶらぶら歩いていると、ふと「地蔵大仏」という文字が目に留まりました。
まあ入ってみるか。(大変失礼ですが)そんな調子でした。

お堂の前には小さな鐘がぶら下がっていて、「ご用の方は鐘をおつき下さい」と書いてあります。私は遠慮がちにコーンとつきましたが、反応はありません。すこし弱すぎたのです。もう少し強くゴーンとつきます。誰も出てきません。もう一度つきましたが、やはり誰も出て来てくれませんでした。

仕方ない、一度境内を出て、また辺りをぶらぶら歩き、30分ほどしてお寺に戻りました。もう閉門時間も近い。小さな鐘をゴーンとつきますが、相変わらず誰も来てくれません。

まあ、いいかな。どうしても見たいわけでもないさ。そう思って去りかけると、境内奥にある建物から女性の方が出てきて、私の姿にお気づきになり、少しきょとんとされた後、「あっ、お参りですか?」と尋ねられました。

よかった。

「はい。お願いします。」 

案内されて入口に向かいました。本堂は小さいながら鎌倉時代の立派な建築。靴をそろえて中に入ります。

中央にお座りになったお地蔵さま、これは、なんて大きいお地蔵さま! そして、なんて美しい…。

ぼてっと大づくりな地蔵像を想像していたばかりに、抜け目のない理知的で端正なお顔は、全く意外なことで、ふいをつかれた私は、その麗しい尊顔を眺めながら動揺しました。

「大きいでしょう?」

先ほどの女性はお茶を入れて、仏像の解説をして下さいます。

御像はその大きさもさることながら、お地蔵さまとしてかなり異例な特徴を備えていらっしゃるようです。 

像高3m近い座像は鎌倉時代の作。「安座」という、ちょっと変わった座り方をなさっています。座禅の時のように足を組むのではなく、あぐらみたいに足をくずした座りかたです。

お座りになっている台は宣字座(せんじざ)とよばれます。名前がおもしろい。漢字の「宣」の形に似ているから「宣字座」。この台座は本来は仏(如来)しかお座りにならないものです。

ふだん大くくりに仏と呼んでいますが、「仏=如来」というのは完全に悟りをひらいたお方で、釈迦如来とか阿弥陀如来、薬師如来などがそうです。
観音さまやお地蔵さまは「菩薩」という位で、仏になるためのまだ修行中のお方なのです。菩薩であるお地蔵さまが宣字座に座っているのは大変珍しいこと。

さらにもう一つ。

仏像には、仏の背後から差す光(後光)を表す「光背(こうはい)」という装飾があります。福智院のお地蔵様の光背は、ボートのような形(舟形)をした大きな板に、小さな仏がびっしり付いています。これは千仏光背とよばれ、やはり如来の仏像に見られるものです。

つまりこの地蔵菩薩は、如来に匹敵するくらいすごい力をお持ちである、ということが表現されているわけです。

お地蔵さまといえば、赤いよだれかけとニット帽をかぶせられた路傍の石仏や、店先に飾られた可愛いらしい置物など、大変親しみぶかいお姿が目に浮かびます。しかしそれは人々の中に入って教化するための仮のお姿、本来は菩薩の中でも特に勝れた、大変偉いお方なのです。
福智院の仏像は、そんな地蔵菩薩の偉大さを、存分に表現しています。

私はお地蔵さまが大好きなので、この威厳ある御像に大きな感銘をうけました。そしてそれ以来度々このお寺にお参りするようになりました。

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さて話は本日のことに戻ります。小さな悩みをかかえた私は福智院へとやって参りました。秘仏の十一面観音像が公開中とあって、お寺にはちょくちょくお参りの人があるよう。受付にもお寺の方がおられ、すんなりと中に入ることができました。

地蔵菩薩の前に座って合掌。見上げれば、やはり何度見ても惚れ惚れするような美しいお地蔵さま。私はさっそく悩みを打ち明けました。そしてお顔をじっと眺めます。しかしいつの間にか私の気持ちは、このお地蔵さまを彫った鎌倉時代の仏師のほうへと向かっていました。

私は立ち上がって御像に近づき、横から見上げました。威厳と優しさが同居するその繊細で美しく慈悲深い表情は、作者の地蔵尊への強い信仰をそのまま投影しているのかもしれません。私はお地蔵様とともに、その作者に大きな敬意を抱きました。

地蔵像のもとを離れて本堂の奥に進みます。御厨子の中には秘仏の十一面観音菩薩がおわします。90cm足らずの小さな立像で室町時代の作。以前にも一度拝見したことがあります。綺麗な仏さまでしたが、その時は特に心惹かれることもなく、一般的な仏像という印象しか残りませんでした。

しかし今日あらためてお目にかかった観音菩薩のお姿は、美しく、優しく、光背の金箔の光を受けてほのかに輝いて見えます。私はこの観音様の前に立った時、「私の頼み事はこの観音さまが解決して下さる」と思いました。そしてその穏やかなお顔をじっと見つめました。

実は昨晩、私の家で飼っていた小さな命が死んでしまったのです。それはイヌやネコのように人と意思を通じ合わせる動物ではありませんが、手に乗って餌を食べたり、私によくなついていました。一人暮らしの私にとって、家のなかに生き物がいることはなぐさめになりました。がさごそと動きまわる音が聞こえてくると妙に安心しました。その音が今日からもう聞こえなくなるのです。私はそれを大事に飼ったつもりですが、小さなゲージのなかで過ごした一生がどんなものだったか分かりません。後生はどうか極楽浄土にいって幸せに暮らしてもらいたいと思うのです。

地蔵菩薩は極楽へと先導する役もして下さるといいます。そして観音さまもそうです。

私は真直ぐ手を合わせ、観音菩薩にお願いしました。そのお顔は、僅かに微笑えんでいるようで、うん、うんと、うなずいて下さっているように感じました。それがとても嬉しくて、胸の前でつよく合掌し、深々と頭を下げました。

観音さまにお願いしてしまうと、私はもうすっかり安心してしまいました。

お堂の外は雨が降っています。傘を持ってきてよかった。

私はふりかえって考えました。一年の短い期間だけ御開帳される観音さま。一度拝見したときには感銘を受けず、またお会いしたいとは思いませんでした。私は今日お地蔵さまにお会いするために福智院にやって来ました。そして再び観音さまを拝見することになりました。その観音さまは、もともと伊勢のお寺にあった仏像だそうです。明治の神仏分離令の騒動の時にそのお寺を離れ、縁あって福智院へ来たといいます。

雨の中、私はとても暖かい気持ちになりました。そしてお地蔵さまと、観音さまへの感謝の気持ちでいっぱいになりました。


― 今日の一冊 ― 

地蔵のこころ 日本人のちから

地蔵のこころ 日本人のちから

  • 作者:玄侑宗久
  • 発売日: 2012/01/30
  • メディア: 単行本