今日も終日お寺めぐり

町田暮歩のお寺探訪記。お寺参りはこんなに楽しい!

ちぐはぐな仏さま ひとほとけ その9


百聞は一見に如かず、仏像の本当の素晴らしさもまた、自分の目で確かめてみるに如くはないのです。

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大安寺で毎年11月に御開帳される秘仏の十一面観音菩薩。胴体は奈良(天平)時代当初の木彫が今も残りますが、頭部は後の時代になって補作されたものです。

以前手にした随筆の中で、「天平の美しい胴体に、どうしてあんな頭をつけてしまったのか」(あるいはもっと痛烈な言われようだったかもしれませんが)、そんなふうに書かれているのを読んだ記憶があります。
とにかくお体のほうは相当に美しいらしいのですが、お顔が良くないのだと言います。

私は仏と心通わせたくてお寺に参拝するものですから、体ばかり美しくてもいけないのです。

その本は白洲正子さんの『十一面観音巡礼』だったと思っていたのですが、読み返してみても大安寺の話は見当たりません。白洲正子さんのまた別の随筆だったのか、あるいは、全然違う方のお書きになった本だったのかもしれません。
とにかくいつか誰かのその本を読んだ私は、とうとう今日まで大安寺の十一面観音にはお目にかからずにいたのです。


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大安寺の十一面観音菩薩は癌封じの仏として篤く信仰され、お寺では頻繁に御祈祷が行われています。私が到着した時もちょうど御祈祷が始まる時間で、鬱金(うこん)色の法衣を着たお坊さまがお堂へお入りになるところでした。

その間私は宝物殿の仏像を拝観し、再び外に出たときにはすでに夕刻がせまっていました。

御祈祷が終わったあとの本堂は少ない明かりに灯されてほの暗く、堂内には私一人しかいません。
奥に進むと左右に上げられた幕があり、ご本尊はその向こう側におわします。

前に立つと、幕の間から観音菩薩の天平の胴体だけが目に映ります。木肌が露わになり古色を呈していますが、細やかに波うつ衣をまとい、胸元に繊細な装飾をつけたその立ち姿はとても華麗で、洗練された美しさを保っています。

おそるおそる幕の内を覗き込んで見上げると、細い首で継がれた後補のお顔。それはせまい肩幅に対して明らかに大きく充実しており、胴体との強烈な違和感に私は一瞬たじろぎました。

これは確かに天平の雰囲気を損なうものに違いありません。いや、しかし、むしろ、私はそのお顔に強く惹かれ、すぐさま天平へのこだわりは捨て去って、その後補のお顔を見つめ直すと、何かいいようのない感動が胸にこみ上げてきました。

私は床に正座しました。
見上げれば、つやつやとひかる若々しい肌は、朽葉色の胴体との対比によって一層若々しく映り、ほほのもっちりとした感触まで伝わってくるようです。そのまなざしはゆったりとして柔和で、慈しみに満ち、見下ろされた私はこの上ない安堵の気持ちにつつまれていきます。

天平の仏像の美に浸りたい時、おそらくこのお顔はむしろ邪魔になってしまうのでしょう。
歴史的価値から見ても美術的観点から見ても、間違いなく軍配があがるのは胴体の方です。写真で拝見すれば、その頭部は、はっきり言って変です。正直にいうと私も、「天平の華麗な胴体を補作の頭部が台無しにしている」と述べた、あの本の作者の肩を持っていたくらいなのです。
しかしこうして見上げる観音さまのお顔は、実際美しい。

灯明の影か、傷なのか、左のほほにえくぼが見えます。小さな口には朱が残ります。鼻の頭が光ります。大きなまぶたに沿って弧を描く細い眉も、優しい目も、眉間の上の円い小さな白毫までもが美しく感じられます。

観音様のおおらかで温かいまなざしに抱擁されて、私はしばらくのあいだ幸福な時間を過ごしました。いつまででもそうしていたい気がしました。

やがてお坊さまは戸締りの準備をはじめます。私は腰を上げて立ちかけましたが、「あと一分だけ」という気持ちで、結局もう五分ほど立てひざをついたまま仏のお顔を見上げていました。


お堂を出ると早くも空には月が光っています。十二月間近の空気はさすがに冷たい。

しかし私はとても充実した気分で大安寺の門を出ました。そして来年もまた十一月にここに来ることを、今から楽しみにしているのでした。


 ― おしまい ―

 

大安寺、ダルマみくじと聖観音 ひとほとけ その8

 

あさっては明日の明日で、おとといは三日前の明日なのですから、今日あるものは明日もあることが当たり前ならば、1200年昔のものが今日あることにも、何の不思議もありません。

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大安寺は奈良県奈良市にある真言宗のお寺。
大安寺の前身である百済大寺は日本で最初の国立寺院として、舒明天皇の11年(639年)に創建されました。以後場所と名前を点々と変えながら、平城遷都とともに現在の土地に移り、名を大安寺と改めました。
飛鳥、奈良時代には国の中心寺院の一つとして大伽藍を有しましたが、中世以降度重なる災禍等によって衰退し、今では町の中に建つ小規模な真言宗のお寺になりました。

大安寺には奈良時代から守りぬかれた九体の貴重な木彫仏が伝わっています。
そのうちの七体は宝物殿に保管されて常時拝観することができ、二体はそれぞれ春と秋のひと月の間のみ公開される秘仏です。

共通の様式をもつ九体の美しい仏像は、どれも木肌が露わになり、割れ、補修が目立ちます。それはいかにも「残った」という様子を呈し、千二百年以上もの歴史を伝わって来たことの奇跡を、見る者に実感させます。
ということは、今日あるものが明日にもあるのは、やはり一つの奇跡ということになるのでしょうか。


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家を出る時間が遅くなってしまい、お寺に到着したのは15時30分。
拝観受付に行くとちょうどこれから本堂で御祈祷が始まるとのことで、私はまず七体の仏像がおわす宝物殿に入ることにしました。檀上に並ぶ仏像の中でとりわけ有名なのは、中央の不空羂索観音と、その右隣の楊柳観音です。しかしこの日の私は左から数えて三番目の、聖観音の御像に心を惹かれました。

真直ぐお立ちになる観音菩薩。背が高く、肩幅広く、端然として気高いお姿は、どこまでも真直ぐで歪みがありません。胸元の飾りと肩にかかった薄く繊細な衣に気品がただよいますが、そこには性別など軽々と超越してのけた高尚な美しさがあります。

同じく真直ぐ前方に向けられた聡明なお顔。
少しあがった小鼻と口の上のふくらみが、厳格な表情に親しみを与えます。

すっとおろした右手、軽くひじを曲げてかかげる左手、揃えた両足。むっとつぐんだ口、結い上げた髪、静かな眉間。全身に実直な尊さが満ち満ち、それは、細く開かれた正直な眼差しにもっとも象徴されています。
観音さまの視線は遠く遠くまで真直ぐなのです。

観音さまと呼ばれ親しまれる観音菩薩は、正しくは観世音菩薩といいます。これはよくいわれることですが、世の音を「聞く」菩薩ではなく、世の中の音を「観る」菩薩さまなのです。この御像を拝見すれば、そのことがよく分かる気がします。
それは世間一切の空気の振動まで見通すような、透徹した眼差しなのです。

横から拝せば、そのお姿は一転して穏やかなものになります。そして遠く遠くを見つめる目に深い優しさを孕んでいることに初めて気がつきます。

私は観音像を右から左から眺め、しゃがんで見上げてみます。
そうして私が御前を右往左往しても、観音さまの真直ぐな視線は微動だにしません。

最後にもう一度正面に立ち、合掌します。観音さまの視線は私を貫いて遥かその先へと延びていきます。千二百余年途切れることなく続く菩薩の広大な眼差しと真直ぐな立ち姿に、私は心底から感服しました。

宝物殿を出れば、夕刻の大安寺境内。芝生が敷かれ、ところどころにベンチとテーブルが置いてあります。そこに奈良時代建立の古刹の雰囲気はもはや無く、初めてお参りした時には少々がっかりしたものです。しかし今は町の中のなごやかなお寺という感じが、かえって好ましく思われます。

本堂前には奉納料ひとつ300円のダルマみくじが積まれています。小さなダルマ人形の中におみくじが入っていて、参拝者は読み終わった紙を棚の紐にくくりつけ、ダルマの人形は好きなところに置いて帰るようです。

一年半前に訪れた時よりもその数はずいぶん増えていました。境内のいたるところに小さなダルマさんが並んでいます。その一つ一つを眺めてみれば、底から紙を引っ張りだして一喜一憂する参拝者の顔が目に浮かびます。そのうち境内は可愛いらしいダルマで真っ赤になってしまうかもしれません。

そろそろ閉門時間が近づいてきました。本堂の御祈祷はもう終わったようです。

 ― つづく ―

 

しゃがんで拝む凛凛しい仏  いちにちひとほとけ 7


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色々なことが制約される昨今、外出も気を付けてすれば悪くはないと知りつつも、遠出するのは気が引けて、近場のお寺をぽつぽつとお参りする日々。

令和二年度のお寺参りは、一つ一つの仏さまとじっくり向き合い、仏さまとは密な関係になれるような参詣にしたいものです。

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今日も引き続き喜光寺の境内。

行基堂と睡蓮の池の間には、土が盛られて少しこんもりとした所があります。芝が生え、小さな松の木が数本植えられています。
そこに突きささるようにして立つ高さ40cmほどの四角い石。その石には厚さ3、4cmほどのお地蔵さまのお姿が彫られています。

これまで何度もお参りした喜光寺ですが、今日になって初めてここにも仏さまがいらっしゃることに気がつきました。

浮彫りのお地蔵さまのお顔はすっかり擦り減ってただ輪郭を残すのみ。
右手に錫杖をつき、左手に宝珠を持って胸の前で大切そうに抱いておられます。

その立ち姿がとても凛凛しくて、しゃがみこんで眺め、思わず見惚れてしまいました。

人間のこころとは不思議なもので、四角い石に浅く彫られただけの仏の姿に、どうしてこうも気持ちが落ち着くのでしょうか。
私はちょっと考察してみたい気がしました。

盛られた土の上にお立ちになるお地蔵さまは、しゃがんで拝見するとちょうど目線の高さにおわします。小さな石ぼとけは、とかく見下ろしてしまいがちですから、こうして同じ目線で手を合わせられるということは大事なことかもしれません。
それから足下にひょろひょろと短い草が生えていることとか、背丈の低い松の木が植わっていることも何か関係しているかもしれません。あるいは石の材質とか、大きさとか、風化の具合、浮き彫りという表現方法の効果もあるのでしょうか。

まあ考えてみても理由は知れませんが、それがお地蔵さまであるということは、とても肝心なことに違いありません。

道々に立ち、行き交う人々をお守り下さる地蔵菩薩。今まで気がつかなかった、こんなところにもおわしたのですねという感謝の気持ちに、私は立ちどまって手を合わせたくなったのです。

お地蔵さまの着ていなさる衣はとてもゆったりとしていて実に頼りになります。賽の河原で小石を積む子を、衣のすそにそっと隠し、鬼から守っておやりになるのです。
胸に抱える宝珠は、心のままに願いを叶える不思議な珠です。錫杖をつくお姿は、くまなく歩きまわって人々を救うことの象徴です。
私は尊敬の念をもって、その小さなお姿に手を合わせます。

合掌と鼻の間を雪虫がふわふわと飛んでいきました。顔をあげて見れば、あちらこちらに小さな白い綿が舞っています。冬が近づくと雪虫は生涯最後の引っ越しをするため、こうしてふわふわ飛び回るのだそうです。

お地蔵さまは、もうお顔がおありでないことも忘れて、私に優しく微笑みかけてくださっています。

まだしばらくコロナ禍でのお寺参りは続きそうですが、こうした小さな出会いがあることは、不幸中の幸いなのかもしれません。


 ― おしまい ―

 

とぐろとヘビと好々爺 ― いちにちひとほとけ 6 ―


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宇賀神という神さまをご存じでしょうか。

宇賀神はぐるぐるとぐろを巻いた白蛇の神さまです。しかし鎌首をもたげたそのお顔はおじいさんです。もっともおばあさんの場合もあれば、まだ若い人のこともあるようです。

宇賀神はお寺で信仰されていますが、インドや中国にはそのような信仰はないようで、平安時代ごろ日本で現れた神さまだと考えられています。
ヘビはねずみを捕えて食べますから、倉の米を守る神さま、ひいては財福をもたらす神さまとして信仰されるようになったそうです。

蛇はその姿からしばしば龍の化身とみなされることがあります。龍神は水の神様として祀られます。
同じく水と深い関わりをもつ神様に弁財天がおられます。やがて弁天さまと宇賀神さまは融合して、宇賀弁財天という神様が生まれました。

弁天さまの御像をよく見ると、頭の上に小さな鳥居がのっていることがあります。鳥居を覗いてみて、その向こうに宇賀神さまが座っていらっしゃれば、それは宇賀弁財天です。

さくらももこさん原作のアニメ『コジコジ』に、たしか宇賀神らしき老人のキャラクターがいた気がします。宇賀神さまの風変りな様子は、いかにも「さくらももこ劇場的世界観」をかもしておられます。

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昨日書いた喜光寺というお寺にも宇賀神さまがおわします。

本堂の裏手に小さな睡蓮池があり、その真ん中に弁天堂が建っています。
喜光寺の宇賀神さまは高さ30cmほどの石の御像で、四重に巻いたとぐろの上に、あごひげをたくわえた好々爺のお顔が優しく微笑んでいらっしゃいます。
お厨子の扉は毎年1月1日から15日の間と、夏のハスが咲くころにだけご開帳され、普段は拝見することができません。


この夏のこと、私は喜光寺にお参りして一年ぶりに宇賀神さまにお目にかかりました。

なつかしい好々爺の垂れた目と長い眉を見つめておりますと、ふいにある光景が私の脳裡に浮かびました。

それはおそらく私が小学校2年生か3年生の時。場所は祖父母の家の近くの田んぼです。春先のことで、ぽかぽかと暖かく雑草が萌出て、小さな花をぽつぽつ咲かせています。
あぜ道に冬眠から覚めたばかりの大きなトノサマガエルが飛び出してきました。私はそれを捕まえようと必死に手をのばします。トノサマガエルはその手をかいくぐってピョンピョン飛び跳ね、とうとう草むらの中に入って、私はカエルを見失ってしまいました。

もう20年ほども前の、他愛のない一場面がふと頭に浮かび、とても不思議な感覚を覚えました。

あごひげをたくわえた宇賀神さまは、いつにもまして好々爺然として穏やかなお顔です。

この宇賀神さまは、その頃から私のことを知っていらっしゃるのかもしれません。
神様ですから、そういうこともあるのかもしれません。


11月も終わりに近づいた今日、小さなお厨子の扉はぴたりと閉じられています。暗いお厨子の中で、宇賀神さまは相変わらず座布団の上に座っていらっしゃるのでしょうか。

私はそっと扉を開いて中をのぞいて見たい気がしました。けれどそれはよしたほうがいいでしょう。

ひょっとすると、あの大きなトノサマガエルを口にくわえた宇賀神さまが、にっこり笑っているかもしれません。

神様というのは必ず、見てはならない一面を隠しもっていなさるものです。


 ― おしまい ―

 

行基菩薩の求道の旅  一日ひとほとけ5


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奈良時代、日本の仏教は鎮護国家としての信仰、つまり仏の力で国を守るためのものであり、また東アジアの国際社会の一員としての学問的ステータスでもありました。

そんな時代、行基菩薩は民衆の中に入って仏の教えを説いてまわり、百姓と一緒になって道を整備し、橋を渡し、あるいは困窮者のための施設をつくるなど、精力的に人民救済を行いました。

行基のような私度僧(正式な資格のない僧)の勝手な行動は役人の目に留まり、たびたび弾圧を受けることになりました。それでも行基を慕い集まる人々の数はどんどん増え、その影響力はますます大きくなっていったのでした。

そんな行基菩薩は、きっと慈愛に満ち溢れた聖者のように穏やかなお顔をされていただろうと思うと、必ずしもそうではないようです。

お寺に祀られた行基の御像を拝見すれば、その多くは大変鋭い、厳しいお顔をされています。

行基の活動は広く人々を救済するという大乗仏教の精神に基づくもので、人民救済も行基菩薩にとっては仏教者としての修行なのでした。
人々を喜ばすことが目的ではなく、むろん人に感謝されたいがためでもなく、地位や名誉のためでもありません。
それはただ一心に仏道を志すものとしての使命であり、行基の生涯は、ひたすら続く長く厳しい求道の旅だったのです。

若い時には過酷な山岳修行を行い、日本国中を歩いてまわったといいます。
お寺巡りをしていると、行基菩薩創建と伝えられるお寺のあまりの多さに驚かされます。その多くは後につけ加えられた伝承でありましょうが、それだけ行基が広く行動し、篤く崇拝されたことの象徴のようであります。

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唐招提寺や薬師寺がある奈良の西の京を少し北へあがったところに、喜光寺という小さなお寺があります。

喜光寺は行基菩薩が最後の時をお過ごしになったお寺で、境内の行基堂には行基菩薩の木造がおわします。この御像は行基のお墓がある竹林寺に安置されていた行基菩薩像(現 唐招提寺所蔵)を摸刻したものだそうです。

行基がこのお寺で眠るがごとく入寂されたのは天平勝宝元年(749年)、82歳のとき。

長い生涯を休むことなく体にむち打ち奔走してきた菩薩の、その意志の強い厳格なお顔はもはや疲れ果ててしまったように見えます。
力なく眉間にしわを寄せ、弱々しく悲しい目に、差し込む日の光がわずかに揺れています。堅く結ぼうとする口もとは下がり、ほほは硬直し、痩せた胸板に肋骨が浮き出し、前に立って合掌する私はつらくなって、凝視するに堪えません。

この御像を拝するたび、菩薩の道とは苦行なのだと感じ、私は涙が出そうになります。


行基入寂の地であるとともに、喜光寺は「蓮の寺」としても知られています。夏には250以上もの大きな鉢が並び、白から紅の美しいハスが開花して芳香を漂わせます。

いま境内では新しく建設中の舎利殿の工事が行われています。枯れた茎をすっかり刈り取られたハスの鉢は境内の隅によせられていました。

うすく張った水は、弱い日を受けて鈍く光ります。藻が生え、落ち葉が泥の上に沈み、寂しくなった大きな鉢。一切衆生の救済というなかなか叶いそうにない大願をかかげた行基菩薩の精神は、いまでも輪廻を経巡り続けているのでしょうか。

今日は舎利殿の工事もお休みのようで、ひとけのない冬前の寂しい境内はとても静かでした。
冬が過ぎればハスはまた泥の中から芽を出し、葉を広げ、7月頃には清楚な花を咲かせるでしょう。

私は遠くからもう一度、行基菩薩の御像に手をあわせ、目をつぶりました。


― おしまい ―

 

一日ひとほとけ その4 ― 東大寺びんずる尊者 ―


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賓頭盧(びんずる)さんはお堂の外で、一人ぽつんと椅子にお座りになっています。

賓頭盧尊者はお釈迦様のお弟子の中でも大変優秀なお方で、また神通力の使い手としても知られていました。
神通(じんずう)とは、「どんなことでも自由自在になし得る、計り知れない不思議な働き・力。」(大辞泉)

お釈迦様はそのような力をむやみに使うことはよしなさいと、再三お諭しになったようです。
賓頭盧尊者はとても慈悲深いお方で人々の尊敬を集めましたが、お咎めに背いて在家の前で軽々しく神通力をひけらかしたために、とうとうお釈迦様から破門されてしまったのだそうです。

今でもお寺のお堂に入れてもらえない賓頭盧さんは、一人ぽつんと外の廊下に座っていらっしゃるのです。

参拝者は賓頭盧さんの神通力のご利益にあずかろうと、その御像を手のひらでさすって行きます。自分の体の悪いところと同じ場所をなでると良くなると信じられているのです。
繰り返しさすられたところはツルツルと光ります。一番よく光っているのは、たいていの場合、脚と頭です。頭をさすって脳ミソまで良くなるのかは知れませんが、人々の切なる願いが伝わってきます。

超人的能力をもって人にご利益を授けることは、後の仏教界ではむしろ称賛されています。賓頭盧さまもそろそろお堂に入れてさしあげてもいいように思います。しかしお坊さまも、お釈迦様が決めたことだけにむげにするわけにもいかないのでしょう。
なかにはひっそりと堂内の隅に置かれた賓頭盧像もありますが、たいていはお堂の外でぽつねんと座っていらっしゃるのです。
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東大寺の大仏殿にも大きな賓頭盧尊者の御像があります。
観光客が頻繁に出入りするお堂の入口の、その右横の廊下に置かれた椅子の上で、賓頭盧尊者は独自の存在感をかもして超然と座っておられます。
頭にはシャワーキャップのような赤い帽子をかぶり、同じく真っ赤なよだれかけを着けていらっしゃいます。口を開いて笑った面長なお顔は、おそろしいといえばおそろしくも見えますが、ひょうきんで人の良さそうなご老人のようでもあります。

賓頭盧さんの前には柵が立ててあって、参拝客が自由に触ることはできません。東大寺の賓頭盧さまは数ある賓頭盧像の中でも特にご立派で、とても有名な御像です。けれど撫でさすることができない賓頭盧さんに観光客はあまり関心を示しません。

11月も半ばを過ぎた今日は季節外れに暖かな日で、賓頭盧尊者もほのぼのと笑っておられます。いよいよ冬が近づいてくれば、吹きさらしの外の廊下はお寒いことでしょう。
きっと賓頭盧さんのことですから、夜な夜な神通力を使って火鉢など引き寄せ、暖をとられたりするのかも知れません。

人々に愛される賓頭盧尊者ですが、まだ当分お堂の中には入れてもらえそうにありません。 


 ― おしまい ―

 

あうんの仁王、東大寺南大門の夜 ― ひとほとけ その3 ―


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東大寺南大門に立つ仁王さま。向かって左、アッと口を開くのが阿形(あぎょう)、右でウンッと口をつぐむのが吽形(うんぎょう)の力士です。

私が中学生のころの歴史か美術の教科書には確か、大胆で力みなぎる躍動的な吽形が運慶作、枠内にきっちり納めた丁寧なつくりの阿形が快慶作だと、いくぶん運慶びいき目に載っていたと思います。

そんな記憶があったので、初めて南大門の下に立って仁王像を仰ぎ見た時には、「やっぱり吽形かっこいいなあ!」と単純な私は吽形にばかりむやみに感嘆していました。

ところがいつか見た本の中には、運慶と快慶が共同で指揮をとり阿吽の像を造ったのだと書いてあります。それを読んだ後で仁王さまを眺めてみれば、阿形の方もなかなかどうして素晴らしい出来栄えなのです。

それがまたその後になって手に入れた本によると(どうもこれが正しい見解のようですが)、阿形の方が運慶・快慶の共同プロデュースでつくられ、吽形は運慶の息子の湛慶と、定覚という仏師のプロデュースでつくられたらしい。

しかし私はそれを取り違えて、吽形が運慶・快慶、阿形が湛慶・定覚と思い込んでしまい、門からはみださんばかりに活力ある吽形に比べ、阿形のほうはちょっと窮屈で、やっぱり息子世代はまだまだ運慶快慶には敵わないねえ、などと満足げに頷いていたのです。

そしてそれが逆さまだったことに気がつくと、今度はどうも阿形の表情の緊密なところなど計り知れなく良く見えてくる...。

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一昨日東大寺では大仏殿の夜間特別拝観が催され、南大門にも明かりが灯されていました。いつもは暗くて見えにくい仁王像も、ライトに照らし出されてありありと見えます。

自分の記憶に疑心暗鬼になった私の鑑賞は、両方の像に対し慎重です。

南大門の仁王像(正式には金剛力士像)は、背丈8.4m。これほど大きく造られたにもかかわらず、二体の金剛力士は驚くべき軽やかさでお立ちになっています。
腰に巻いた衣は流麗に舞い、腕や脚の筋肉の盛り上がりは誇張されつつもごく自然で、表情筋は絶妙に緊張し、門を通る者をぐいと睨みつけます。

明かりの中でしげしげと眺めれば、やはり運慶・快慶作の阿形のほうが真に迫っているように感じられ、吽形のほうは躍動的で実に上手くできてはいるけれど、内に漲る力はやや劣るよう。

どちらかをひいき目に見ることはやめておこうと思いつつ、私はまたそんな風に差別をしてしまいます。

戦後の仏師(仏像をつくる人)の第一人者であられた松久朋琳さんは、その著書の中で、阿吽とは物事の二元、つまり上下とか貧富、善悪、美醜といった一対のものの見方を象徴し、寺の入口に置かれた仁王は、これより先、二元論にとらわれない世界があるということを、通る者に指し示しているのではないか、といったことを書かれていました。

いくたびもこの門を通り抜けたにも関わらず、私は未だに運慶快慶・湛慶定覚という二元に振り回されているようです。

大仏の夜間拝観をひやかしにきたと思われる男四人連れの若者。彼らは南大門を通り過ぎざま、ただ一言、「うわ、これはスゴイわ。」とだけ言い放って大仏のもとへと去って行きました。

実際南大門に立って感じるべきことは、それだけで十分なのでした。
仏像に何らの興味もない彼らは、ほんの数秒眺めただけで、私よりはるかに見事に仁王さまのことを鑑賞してのけたのでした。


 ― おしまい ―

 

小窓から見た大仏さま ― ひとほとけ、その2 ―

 

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東大寺では11月の毎週金曜日、大仏殿の「夜間特別参拝」が可能です。

今年は午後6時から新型コロナウイルス終息祈願法要が行われ、午後6時半頃からは大仏さまへ奉納演奏がささげられています。

奈良の大仏のおわす東大寺大仏殿は江戸時代に再建されたもので、世界最大の木造建築でした。今は建築素材が発達して、海外にはもっと大きな木造の建物があるのだそうです。

大仏殿正面の真ん中には小窓がついていて、それを開くと、ちょうど大仏さまのお顔がのぞき見える仕掛けになっています。

夜間拝観中堂内には明かりが灯され、外から眺めれば、小窓に大仏さまのお顔が浮かび上がるように見えます。私はその様子を一度見てみたいと思っていました。

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私が大仏殿に着いた時、ちょうど奉納演奏が終わって堂内に拍手が起こりました。それに気をとられつつ、ふと顔をあげると、小窓に大仏さまのお顔が見えてハッとしました。

夜景に浮かんだ大仏さまのお顔はとても美しくて、私は思わず込み上げてきた涙をぐっとこらえなければいけませんでした。
照らし出される大仏の目線は鋭く、壮麗で、威厳に満ちています。
それは普段堂内で見上げる大仏さまのものとはまるで異なる御尊顔でした。

奉納演奏が終わり、参拝者はぞろぞろと帰途につきます。私は入れ違いにお堂に入り、そばに立って大仏さまを見上げました。

落ち着き払ってどっしりと座る大仏さま。目もとにも口もとにも余裕があり、広く全体を見渡すような鷹揚な目線。それはいつもの、おおらかで穏やかな仏さまです。
右手をそっとあげて手のひらを見せる施無畏印(せむいいん)は、人々の恐れを取り除くことを示されているのです。

奈良時代、無病息災と国の安寧を願って建立された東大寺盧遮那仏(るしゃなぶつ)。

当時日本ではシルクロードを伝ってやってきた天然痘が大流行していました。疫病の流行は、人々に得体の知れない巨大な魔物の存在を想起させ、恐怖させました。ただひたすら神仏に祈るより他になすすべもありません。
大仏は、そんな魔物を打ち負かすための国の願いであり、人々の祈りでした。

大仏建立には莫大な財と労力を必要とし、そのために多くの民衆は過酷な労働を強いられたといいます。大仏建立について書かれた書籍やテレビ番組の中には、「大仏なんてつくって一体何になるのか」と怒りながら働く民の様子が描かれたものもあります。

大仏の開眼供養が行われたのは今からおよそ1300年前、天平勝宝4年(752年)のこと。
大仏殿の中に庶民が自由に出入りすることはなかったでしょうから、どれだけの人がその目で大仏の姿を見たのかは分かりません。けれど、人伝えに大仏さまの尊容を聞いた人々は、「大仏なんて」とは、もはや言わなかったと私は思います。

私は再び外に出て大仏殿を眺めました。
堂内で見るおおらかな大仏さまとは違い、夜の広間に浮かぶ仏の顔は、強く厳しいものでした。

私は漠然とした安心を感じました。
それはワクチン開発のニュースがもたらす具体的な喜びとは違っていました。

石段を上がって回廊の上に立つと、大仏殿の小窓を真正面に見ることができます。
いつも首が痛くなるくらい上を見上げて拝む大仏さまに、まっすぐ向き合って合掌するのは不思議な感覚でした。

私はコロナの終息を願うのを忘れて、ただただその美しい尊顔に手を合せていました。

 

 ― おしまい ―

 

一日ひとほとけ。 ― その1 ― 


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また新型コロナが流行りはじめました。お寺参りも密を避けて、回数もへらした方がよさそうです。そのかわり、私はひとつひとつの仏像と、これまでよりももっとじっくり向き合ってみたいと思います。

お寺にはたくさんの仏像がありますが、その全てと心が通じ合うわけではありません。仏像の名品としてひんぱんに紹介されていらっしゃる仏は、やっぱり素晴らしくて、ほとんど例外なく心をゆすぶられます。けれど、美術評論では見向きもされないような素朴な仏像や、ありふれた仏像の中に、ふと心ひかれるものもあるのです。

そんな仏さまとの出会いもまた一つの記事として、一日ひとほとけ、これから毎日書いていくことを目標にしたいと思います。

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一日ひとほとけ。 ― その1 ― 

自分のそばに置いて拝むための仏像を「念持仏(ねんじぶつ)」といいます。いつだか私も念持仏がほしくなって、骨董屋を回ってみたことがあります。
もちろん高価なものなど買えませんから、ごく小さい仏をと思って、それらしい店を見つけるたびに入ってみたのですが、なかなかいい仏像は見つかりませんでした。

インターネットのオークションで出回っている仏像は何だかちょっと恐ろしい。結局そういうものを手に入れるより、皆に拝まれている路傍の石仏を私も拝もうと思い至り、道端で祠を見つけるたびにのぞきこんだりしていました。
それでも念持仏にしたい仏に出会うことはなかなかできませんでした。

2年ほど前、やっと私は一体の石ぼとけに出会いました。

それはあるお寺の境内の隅に置かれたお地蔵さまでした。お寺は私の家から15分ほどのところにあり、境内には自由に立ち入ることができます。

お地蔵さまは背丈1mほど。右手に錫杖、左手に宝珠をお持ちになったお姿は地蔵菩薩の基本スタイル。丸いたまご形のお顔。お鼻はこづくり。小さな口はきゅっと上がり、目はすっと閉じてちょっとツリ目。一番好きなのはそのふっくらとしたホホです。

境内の奥まったところにいらっしゃるためか、未だその前に誰かいるのを見たことがありません。周りはいつだってきれいにしてあるので、お寺の方が毎日お世話をしていらっしゃるのでしょう。それでも、ひっそりとお立ちになるお地蔵さまを、私はすっかり自分の念持仏のように思っているのです。

私はお地蔵さまの所へ行ってつまらない相談をします。思い詰めたときや寂しいときはいつもお会いしに行きます。

あまり天気がよくて日が当たるときは、光が照り返すから、お顔が見えづらくていけません。かといって雨に濡れていると、今度は顔立ちがはっきりしすぎるのでそれもいけないのです。

一番いいのは夕暮れ時です。薄暗がりで輪郭がぼやけ、面持ちは豊かに見えます。

仏のお顔がどんなふうに映るかは、その時の自分の気持ちも大きく関係します。
普段はおおらかに笑っていらっしゃるお地蔵さまですが、時にはとても冷たいお顔をされています。それがどうしてかは、その時の私にはちゃんと分かるのです。
もちろん私が悩んでいるような時には、とても優しいお顔でそっと見守って下さいます。

そんなお地蔵さまを一つめの仏に選びましたが、私の大事な念持仏ですから、場所は内緒にしておくことにします。

一日ひとほとけ。 ― その1 ― 
 

潤む仏のガラスの眼 ― 長岳寺その3 ―


前回のつづき
 

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仏像巡りにもバイブルがあります。1919年に出版された『古寺巡礼』は当時の知識人の間で評判になり、触発された多くの作家や学者、芸術家などが仏像を鑑賞しながら奈良の古寺を巡りました。著者の和辻哲郎は『古寺巡礼』の中でこのように述べています。

われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである。たといわれわれがある仏像の前で、心底から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。

明治時代になると政府は国の文化財調査を実施しました。その頃からはじまり『古寺巡礼』によって確立された「仏像を美術的観点から眺める」というスタイルは、やがて庶民の間にも定着していきました。

平成の半ばにも仏像ブームが起こりましたが、その引き金となったのは、博物館で大々的に開催された仏像の展覧会であり、また『見仏記』という仏像鑑賞のエッセイでした。『見仏記』の著者いとうせいこうさんは和辻哲郎のスタイルを引き継ぎ、その第一巻で、「私は仏像に手を合わせない」と断言しています。

令和のお寺巡りでは「仏像を鑑賞する」というスタイルはいよいよ一般化しているようです。

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潤む仏のガラスの眼 ― 長岳寺その3 ―

庫裏を出て日本最古の鐘楼門をくぐります。
左手に本堂。右手には紅葉に縁どられた放生池があります。池のぐるりには石の祠が点点と置かれ、中には弘法大師の愛らしい石仏が座っておられます。半分ほど回ったところにある「一願成就の鐘」。その前の立札に「仏様に願を込めて一打して下さい。」と書いてあります。どうも長岳寺にはよく鐘の音が響くと思っていました。

積極性のない私は自由につくことができる鐘でもついたことがありません。周りに人がいないのをいいことに、今日は思いきってついてみることにしました。

ごーんと自分のうった鐘の音が境内に響くのが無性に嬉しい。

私はゆっくり池を一周して気持ちを整え、本堂へ向かいます。

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堂内では狩野山楽筆の大地獄絵が特別公開中。行楽シーズンとも重なって人が多い。地獄絵は一幅縦およそ2m50cm、横約90cmの画を九幅並べた大画面いっぱいに地獄の様子が描かれています。
仏教美術も美術館で鑑賞する時は楽しいものの、伽藍の中で展示されるとどうもあまり関心がわきません。私はそれより仏像の方に気持ちが向かいます。

仏像にも時代ごとの特色というものがあります。平安時代の仏像には彫りが浅く上品で優美な像が多く、それが鎌倉時代になると、写実的で活力がみなぎってきます。

長岳寺本堂の阿弥陀如来は平安から鎌倉への移行期につくられた仏像で、美術史上の観点からよく注目されます。とりわけ目に水晶のレンズをはめ込んで作る「玉眼(ぎょくがん)」という技法が用いられた仏像の、現存する最古の例としてとても有名です。それまで仏像の目は形を彫ったところに彩色をほどこして表現されましたが、玉眼を用いることで、格段に写実性を増しました。

長岳寺の阿弥陀如来像は表面の金箔がはげて黒漆があらわになり、黒いお顔に水晶の目がきらりと光るものですから、なおさら玉眼の仏像という印象を強く与えます。

そういった理由で、どうしても美術的な見方をしてしまいがちな長岳寺の阿弥陀像。

しかし仏前に立ち、お姿をじっと見つめ、その黒いお顔と玉眼の目がかもす違和感が気にならなくなった時、それは驚くほど瑞々しく、美しい仏さまであることに気がつきます。

美術批評と黒漆のベールを払拭して、ようやくこの仏さまの本来の姿が見えてくるのです。

そうして向き合う長岳寺の仏は、数ある阿弥陀仏像の中でももっとも美しい阿弥陀さまだと、私は思っています。

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 一年ぶりに阿弥陀仏の美しいお姿に対面するため、私は池の周りでじゅうぶんに心を整えてからお堂に入りました。

ところが入れ代わり立ち代わり訪れる参詣人で堂内はせわしない。そして皆こぞって先に述べたような美術評論をやります。

仏像を鑑賞しながらその制作年代や彫刻様式を解説してまわるのは昨今当たり前の光景ですが、明治時代より前には仏前でそんなことをする人は誰もいなかったでしょう。仏像はただ手を合わせて拝み、祈る対象であり、そこで彫刻としての批評が始まることなど無かったはずです。

ツアーガイドの男性が四、五人の年配の女性を連れてやってきました。女性の一人が阿弥陀さまの前で、「まあ、きれい。」とおっしゃいました。するとガイドの男性は、阿弥陀仏を指さし、「ああ、これでしょ。これは平安末の仏像で、」と例の解説を始めました。
私は「これ」という言葉に大変なショックを受けました。

仏像を扱った美術本などで、仏像を全くの「物」として書いたものは少なくありません。しかし実際に仏像を前にして、それを指さし、「これ」と言い放った一言に私は唖然としました。

『古寺巡礼』から広まった仏像鑑賞も、ついにここまできたか…。

私はいたたまれなくなって、仏と向き合う気力を失くしてしまいました。
ちらと見る仏さまの横顔は若々しく瑞々しく、「これ」と指さされることになど何の頓着もおありではないようでした。
それでも私の心はすっかり萎び、ただ斜めからそっと合掌して、お堂をあとにしてしまいました。

お寺が文化財としての価値を認められることによって明治に起こった仏教排斥運動の危機をのりこえ、その後も観光業として発達することで多くの寺院が今日までつなぎとめられてきました。
現代の参詣は元来のものとはすっかり変わってしまったようですが、そのおかげでお寺も仏像も生き延びてきたわけです。
私のお寺参りにも古寺巡礼的要素が多分にあるはずですし、また大きな恩恵も受けているのです。とても非難することはできませんし、非難できた立場でもありません。

しかし私にとって仏像を「これ」と指さした一言はとても悲しいものでした。

「仏像に手を合わせない」と断言した いとうせいこうさんは、今ではTV版見仏記の中で仏前に立つ時、すっと合掌なさっています。三十年近く仏像と向き合う間に生じた自然な心の変化なのでしょう。

長岳寺には人の少なくなった寂しい冬にまたお参りすることにします。
紅葉も仏像も満喫しようと考えた私は少し欲張りすぎでした。

― おしまい ―

 

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仏像に会うー53の仏像の写真と物語

仏像に会うー53の仏像の写真と物語

  • 作者:西山 厚
  • 発売日: 2020/10/20
  • メディア: 単行本
 

普賢菩薩のお説教 ― 長岳寺その2 ―

前回のつづき

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お釈迦様のお弟子の中でも特に優れた十人の尊者がおられます。釈迦十大弟子と呼ばれ、智慧第一の舎利弗、神通第一の目犍連、多聞第一阿難陀など、それぞれに得意の分野をお持ちになっています。

その中で説法第一と称されるのが富楼那尊者。仏教の教義を説いて聞かせることを得意とする富楼那尊者は、たびたび経典の中に登場して活躍されます。

仏像もいろいろ見てまわるとそれぞれに得意分野があることに気がつきます。

私の知る仏像のなかで説法第一と密かに尊敬しているのが、本日参詣した奈良の長岳寺におわす普賢延命菩薩。

晩秋情緒あふれる道を通って一年ぶりにやってきた長岳寺。今日もまた有難いお説教を頂戴するため、私は普賢菩薩のもとへと向かいます。

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普賢菩薩のお説教 ― 長岳寺その2 ―

こじんまりと美しい庭園を横目に見ながら庫裏の縁側をすすみます。つきあたりには延命殿と呼ばれる小さなお堂。

お堂の奥には円形の台座が設えられています。円台のふちには小さな白象がびっしりと並び、その上に載る大金剛輪と呼ばれる円盤を支えています。大金剛輪の上には、四頭の白象。各象は頭の上に一体ずつ四天王をのせています。それら四頭の白象によって蓮の台座がささげられ、その上に、普賢延命菩薩は座っておられます。
普賢延命菩薩は二十臂の像。つまり二十本の腕をお持ちです。大きな浅皿のような円形の光背が背景となります。

それは大変精巧で珍しい御像。
こうして人の目を惹くところから説法は始まるのです。

私は縁側の床板に正座しました。

普賢菩薩のお姿は拝するたび、必ず私の印象に残るよりも大きく、美しく映ります。
放射状に広がった腕と大きな円光背により、意識は自然とお顔の方に集まります。

下から見上げれば、口もとにほのかな微笑み。
うっすらと静かにお開きになった目。

「立ちどまって私の話をききなさい」

と優しいお声が聞こえてくるよう。

さすがは説法第一の仏さま。
私は居住まいを正して見つめなおします。


私が初めてこの仏さまにお会いしたのは確か六年前。

当時私はお寺巡りをはじめたばかり。奈良の仏像をゆっくり見てまわりたくて、五日かけて奈良盆地を歩いてまわる、小さな巡礼の旅の途中でした。

その巡礼の四日目。

正午過ぎに長岳寺にたどり着いた私は、庫裏に入って今日と同じように床に正座し、合掌しました。

静かに私を見つめた普賢延命菩薩はただ一言、「口業」とおっしゃいました。

つまり仏を見つめているうちにそんな文字が私の心に浮かんだのです。

仏教ではよく「三業」という言葉が使われます。業とはこの場合「行為」または「行為のなすはたらき」といった意味です。三とは身・口・意(こころ)のことを指します。

中村元先生の『佛教語大辞典』を引用させていただくと、

身に行うことと、口に言うことと、心に思うこと。この三つで一切の生活活動が尽くされる。すなわち、あることをしようと意志するのが意業で、それが身体的行動に現れるのが身業、言語表現に現れるのが口業である。

普賢菩薩がただ「口業」とおっしゃった意味が私には分かりました。

巡礼の旅にもかかわらず、疲労と道中のささいなストレスから、私の頭にはひっきりなしに雑言がひしめいていました。仏さまはそのことを戒めているのだと分かりました。口から言葉を発したわけではありませんが、頭の中に浮かんだ時点でそれはすでに口業なのだと。つまり、口に出さなければそれでいいのではない、頭にすら悪口(あっく)がのぼらないように注意しなければいけない。普賢菩薩の言葉を、当時の私はそう解釈し、有難くなって深々と頭を下げたのでした。

ちなみに密教の教えでは、三つの行いのことを身密・口密・意密とも呼び、あわせて三密といいます。それを知っている人は、初め小池都知事が三密三密とくり返しおっしゃるのを不思議な気持ちで聞いていたことでしょう。

去年参詣したときもやはり口業についてお説教を受けました。その頃も私の頭はやや乱雑としていましたから、むしろ口業について戒めていただきたくて参詣したという節もあったかもしれません。

そういうことで、長岳寺の普賢菩薩は私にとって説法第一の仏さまなのであります。

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今日の私もまた居住まいを正し、やや緊張しつつ合掌します。

すると普賢菩薩の、少し上がった眉の力のぬけ加減が、すぐに私を安心させて下さいました。

「ゆっくりしていきなさい。」

もはや具体的な言葉がこころに浮かぶことはありませんが、普賢菩薩は言葉を介さずに私に語りかけて下さいます。

そのまま私は、今までになくたっぷりと普賢さまの説法に聞き入っていました。

縁側には日光がもろに当たります。私は暑さを我慢できずに体をずらし、影に入って横から普賢さまを眺めました。

正面に私がいなくなっても、菩薩は説法を続けておられます。そうやって何百年も休むことなく説法されているのだと思うと、また一段と有難く思うのでした。

年配の男性がやってきて仏前に座りました。男性はちらと普賢菩薩を見たきり、目をつぶって長々と合掌しています。私は「お顔をあげて普賢さまを見て下さい。」と言いたくなりました。けれどこの男性には、目を閉じていても菩薩の声が聞こえているのかもしれません。

男性が去ったあと私はまた菩薩の正面に正座して見上げました。

こうして普賢菩薩と二人対面していられる時間はとても贅沢なものでした。

仏教経典の中では仏の説法を拝聴した弟子は、あまりの嬉しさに歓喜踊躍して去っていきます。私も自分がインド人なら歓喜踊躍したいくらい嬉しい気持ちがしました。しかしこの書院造りの和風建築は落ち着いています。私は落ち着いてまた長い時間菩薩と向き合いました。

しばらくして立て続けに参拝者が入って来たので、ようやく私は合掌して立ち上がりました。

入口で振り返って普賢菩薩の方を見ると、若いカップルがお賽銭をいれて手を合わせているところでした。一見するとデートのついでに立ち寄っただけといった風でしたが、思いのほか二人は長い時間合掌していました。

それが少し意外な気がして、つい私はその様子を後ろから眺めてしまいました。


― 普賢菩薩のお説教 つづく 11.15 ― 

 

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ブッダのことば: スッタニパータ (岩波文庫)

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  • 発売日: 1984/05/16
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長岳寺にて秋納め ― その1 ―


「季節の移りかわるのは早いもの」とは申しますが、秋のすすむのはことさらに早くて、もう来週にはすっかり終わってしまうのではないかと心配になる今日この頃。

お寺参りは四季折々に楽しいものの、秋の日の参詣はまた格別なのです。

世の中に 絶えて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし 

と歌った在原業平。

桜は咲いたか咲かぬかと気忙しい日々。咲いては雨に風にそれが散ってしまうのを心配し、春の心はいつだって落ち着かない。いっそ世の中に桜などなかったなら、春の日々はのどかなのだろうなあ。

私は秋の業平になって、季節の進行を日夜に憂います。

今週お参りするお寺で今年の秋は終わってしまうかもしれません。だから私はもっとも晩秋を感じさせてくれるお寺へお参りしたかったのです。

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長岳寺にて秋納め ― その1 ―

昼前の出発。
柳本までそれほど遠くはありませんが、乗り換えを三回も繰り返すと次第に旅の気分がしてきます。車窓を流れるありふれた町中の景色も、期待に胸をふくらます私にとっては楽しいもの。

近鉄天理駅でJRに乗換えるためにいったん外に出ます。駅前の広場では青年が一人、白字で大きく「天理教」と書かれた黒のはっぴを着て熱心に布教しています。

近鉄の駅から隣り合ったJRの駅。誰もいないプラットホームに立ち、けぶった秋の空を見上げます。三度目のこの乗り換えによって、景色も私の気持ちも大きく変わります。

やがてやって来る二両編成の電車。線路は奈良盆地の東の端を、南北に走ります。

天理から南へ柳本まで、車窓に奈良の東の山並みを大きく映しながら、電車はゆっくりと進みます。深く色づいた山のふもとに田畑は広がり、その中に点在する瓦屋根の民家、柿の木、枯れススキ。
山の辺の道の鄙びた晩秋の風景は、長い屏風画のように窓の外に広がっていきます。

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わずか五、六分ばかりの鑑賞を終えて柳本の駅で下車。駅前からは民家の間を石畳の道が続きます。私は昨日スーパーで買っておいた大きなおにぎりをカバンから取り出して、それをほおばりながら、なだらかに上る道を歩き始めました。

途中左手に見えるこんもりと丸い丘は黒塚古墳。この辺りでは古墳のある景色は日常のもの。すぐ隣の幼稚園では園児が大声ではしゃぎながら走り回ります。

十五分ほど歩けば、道を大きな道路が横切ります。それをこえると、視界が開け、山並みが迫ります。

その光景はデジャヴュのように、去年の秋そのままなのでした。

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枯れた田のあいだを通る小路。脇には石のお地蔵さまが並びます。すっかり麦色になった猫じゃらしの穂を秋風がゆらゆらと揺らします。連なった赤とんぼは田圃の水たまりをお尻でつっつきながら、秋の空気の中を飛びまわります。

そんな長閑な景色にいつまでも浸っていたくなって、私はもう少し朝早く家を出なかったことを後悔しました。


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長岳寺の大門をくぐれば、生垣の間に玉砂利が敷かれた細い参道。

右手には柿園。葉を落とした枝に取り残された実はすっかり熟れて、鳥につつかれ崩れます。弱くなった日に鈍くひかる築地塀の瓦。参道のけぶった風景は秋の縮図のようで、ヒヨドリの大きな鳴き声が静けさを際立たせます。

釜の口山 長岳寺。天長元年(824年)淳和天皇の勅願により、大和神社の神宮寺として弘法大師 空海によって創建された真言宗の古刹です。

拝観受付を過ぎてすぐ左手にあるのは庫裏(くり)。庫裏とはお寺の僧侶が居住するための建物。
江戸時代(1630年)に建てられた書院造り様式の建築で、もともとは地蔵院という塔頭の一つでした。

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下駄箱にくつをしまって中に入ると、左手に縁側。こじんまりとした美しい庭園には白い山茶花が咲いています。うぐいす張りの床板が心地よくきしむ。つきあたりにある小さなお堂は、旧地蔵院の本堂です。

中におわすのは普賢延命菩薩。

初めてお目にかかったのは、私がまだお寺巡りを初めたばかりの頃、奈良盆地をまわる巡礼の旅の途中でした。

ここにおられる普賢菩薩は、私に仏像との向き合い方を教えて下さった、大切な仏さまです。

去年の秋以来ちょうど一年ぶりの参詣。
なつかしい普賢菩薩のお顔を拝すため、私はうぐいす張りの縁側を進みます。

  ― 長岳寺にて秋納め  つづく 11.14 ―

 

入江泰吉の心象風景 古色大和路

入江泰吉の心象風景 古色大和路

  • 作者:入江泰吉
  • 発売日: 2012/09/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

ただならぬ霊像にあとずさり ― 霊山寺 ―

 

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世の中にはインドに「呼ばれる人」と、「呼ばれない人」がいるのだそう。「呼ばれる人」は何かに引かれるように何度もインドを訪ね、「呼ばれない人」は生涯その地を訪れることなく終わります。

本日参詣する霊山寺の寺名の由来は、インドの霊鷲山という山にあります。それは仏教経典の中でしばしばお釈迦さまが弟子を集めて説法をなさる山。
奈良時代、反対に「インドから日本に呼ばれ」てやって来たのは菩提僊那(ぼだいせんな)という僧。菩提僊那は、お寺の建つ登美山が霊鷲山を彷彿させる霊山であることに感銘し、それを霊山寺と名づけました。

本堂には大変美しい鎌倉時代の地蔵菩薩と、エキゾチックでかなり個性的な平安時代の十一面観音の御像があります。

通常拝観できて " いい仏像 " がある奈良のお寺は大方参詣しているつもりですが、なぜか霊山寺には未だお参りしたことがありません。霊山寺はなかなか私を呼んでくれなかったのです。

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駅前のコンビニでパンとホットコーヒーを買うと、何だかわくわくしてきました。

霊山寺へは一本道。空は見事な秋晴れ。
私は富雄川に沿ってひたすら南に歩きます。

町の中を流れる富雄川ですが、思いのほか水は澄んで綺麗です。大きなコイが何匹もたむろし、小魚の群れが散っては、また集いながら泳いでいきます。護岸ではコガモが並んでうとうとまどろみ、三羽の美しい白サギは石の上に立って水中を凝視します。
そんな川の様子を眺めながらしばらく歩けば、甲羅干しするカメが一匹。カメはもう冬眠する時節のはずですが、この秋の陽気に浮かれ出たのでしょうか。そうやって秋の景色見たさに浮かれ出て、そのまま冬眠できずに死んでしまうものもいます。この秋うららかな光景を眺められないことは、カメに生まれた宿命とあきらめたほうが安全です。

富雄川の流れは浅く、まぶしい朝日は水面に反射して、波が細かく複雑に光ります。

富雄川 波紋はサバの 背のごとし

これではいけない。

鯖の背の ごとき波紋の 富雄川

なぜかあれこれ推敲し始める。

お寺参りの道程も30分を過ぎると、頭の中は混とんとし始めます。

おりよく「霊山寺」の看板が見えてサバの背はおしまいになりました。

参道にかかる橋の脇に立つ石に「鼻高山」の三文字。

鼻高山…。

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参道には大きな朱の鳥居。その奥へと続くのは広い境内。

実は私がここに立つのは今日が初めてではありません。
三年ほど前でしたか、その時私は霊山寺が町なかの小さなお寺だとばかり思い込んで来たために、思いがけない境内の威容を見て尻込みし、踵を返してしまいました。
つまり私はまだ霊山寺に呼ばれていなかったということでしょう。


拝観受付の建物では何故かアンパンマンマーチが流れていました。
境内には宿泊施設があり、料亭があり、温泉があり、ゴルフ練習場まであって、世俗的空気が漂います。

境内入ってすぐ右手にはバラ園。
近代的なモニュメントが置かれ、その周りに並ぶバラの前には各々品種名が書かれています。
フロージン、ダブル・デライト、マドモアゼル・メイアン。女神とか、乾杯というのもある。
しかし皆もう盛りは過ぎたよう。クレオパトラも萎れてしまい、写真に写すのは気の毒なようでやめました。

バラ園を出てすぐ、温泉施設の前に立つ霊山寺の縁起が書かれた看板。

内容はおおよそ以下の通り。

宮中に流星が落ちたのは奈良時代のある日のこと。平城宮は大騒ぎ。光明皇后は胸騒ぎを起こし、病に伏せてしまいました。大変心配する聖武天皇の夢の中に現れたのは鼻高仙人。「登美山の湯屋の薬師如来を祈念したまえ。」とのお告げ。皇后の参詣はままならなかったため、行基菩薩が代参し祈念したところ、光明皇后の病は無事平癒しました。大そうお喜びになった聖武天皇は、この地にお寺を建てました。その後インド僧 菩提僊那が霊山寺と名づけたのは先述の通り。

霊山寺のある富雄は、古くは登美、あるいは鳥見と書き、小野氏の領地でした。鼻高仙人とは実はあの遣隋使 小野妹子の息子、小野富人のことであります。登美に隠居した富人はここで薬草を栽培し、蒸風呂をつくって人々に施薬し、鼻高仙人と呼ばれ尊ばれたのだといいます。

木立の中に石畳が続く境内はとても気持ちいい。しばらく行くと、「こしぬけ地蔵←」と書かれた立札。しかしその横に「(ゴルフ)ボールが飛んでくる恐れがあります。」と追記してあったから左には折れず、右手の石段を上ります。

石段を上った先には三重塔。
世俗の空気ただよう霊山寺も奥に進むにつれて古寺めいてきます。

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鎌倉時代に建てられた三重塔は高さ16m、桧皮葺屋根のどっしりとした構えで重量感があります。
塔内は鮮やかな彩色画の残る貴重な空間ですが、開扉は一年のうち11月3日ただ一日のみ、中は拝観できませんでした。
さらに石段をのぼったところにはインド僧 菩提僊那の供養塔があります。

反対側の石段を下りると、正面にはまた石段。それを上れば霊山寺の本堂。
木立は深々として清水が流れ、苔むす石塔、石ぼとけ。ここまで来るといよいよ古刹の空気漂い、なるほど霊山といった感じもあります。

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一重入母屋造り本瓦葺の本堂は鎌倉時代の密教寺院本堂建築の代表的遺構にして国宝。中に入ると天井は小さな組格子、室の仕切りにも四角やひし形の小さな格子が組まれて細工が細かい。立派な堂内ながらどこか山寺らしい陰鬱とした雰囲気もあります。

檀上に置かれた大きなお厨子は特別開帳中。中におわす金箔きらきらしいお顔の薬師三尊は平安時代の仏さまで重要文化財。
中央にお座りになる本尊の薬師如来。彫りの浅い目鼻立ち、三日月状をした眼瞼が切れ上がり、口元の引き締まった強い表情、また、丸みのある整った体躯の優美なお姿。
両脇の日光・月光菩薩は、彩色を主調とする簡潔な彫法、伝統と新風とを混在させた表現特質は本尊と共通します。

お厨子の左右に立ち並ぶ十二神将は鎌倉時代の作で同じく重要文化財。薬師如来の護法神として安置され、軽捷で躍動的な姿勢をたくみに表現しています。

というように順に見ていくのが本来ですが、私の目にはそれらの御像はほとんど映っていません。今述べたことはお寺の冊子の解説を写しただけのもの。

私の意識はお厨子の下段に居並ぶ地蔵菩薩、十一面観音菩薩に集約されていました。

それぞれ主役を張ってお厨子の中におわすと思い込んでいた二つの仏像は、脇役然として壇上にお立ちになっている。しかしその御像のもつ力の極めて大きいのは一目瞭然でした。

お地蔵さまの美しいのは予期した通り。
むしろ驚いたのは像高80cmほどの十一面観音菩薩。

不均衡な身体に強烈な顔立ちをした異国風のその御像に、一秒の凝視で私は惹き込まれそうになり、あわてて身を反らしました。

それはただならぬ力を秘めた霊像でした。

決して雑念とした心で眺めるべき御像ではありません。秘仏の御開帳と紅葉で人の多い今日の堂内はそれにふさわしくはありませんでした。

私は他に誰もいないしんとした堂内で、この十一面観音像と対峙しなければいけません。

それはこの次に私が霊山寺に呼ばれたときのことになります。
私は目をつぶって合掌し、お堂を後にしました。


― ただならぬ霊像にあとずさり 11.12 ―

仏像の秘密を読む (角川ソフィア文庫)

仏像の秘密を読む (角川ソフィア文庫)

  • 作者:山崎 隆之
  • 発売日: 2020/06/12
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

生駒山をおりて奈良のお寺へ ―寶山寺― その2


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前回のつづき


「生駒の聖天さん」として親しまれる寶山寺。現世利益を求める多くの人で賑わいますが、お堂の前でご利益を願って手を合わせる人々の真剣な顔はなかなか凄まじい。境内には参拝者がどんどん焚き続ける線香の煙がもうもうと立ち込めます。とうとう私はこらえきれなくなり、奥ノ院へと続く石段を上って高台へと逃れてきたのでした。

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そこにもまた小さなお堂があります。
格子戸に「御祈祷受付」と書かれた紙が貼られ、暗い堂内は雑多で埃っぽい。
覗き込むと、観音さまがおわします。美しい御像でしたが、御祈祷の灰ですすけたお姿は少しおそろしくも見えます。
薄暗い堂内に、掛け時計の秒針がカチカチと進む音が妙に大きい。

煩悩を捨て去って涅槃に至らせるのが仏さまの本願のはず。その仏の前で加持祈祷を行い財福を祈ることはどうも腑に落ちない。
やはり仏さまともなると、ニ手三手、いやもっとずっと先の手まで見越して、人に現世の利益をお与えになるのでしょうか。

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さらに石段を上ります。石段の両脇には石仏がびっしりと並びます。少し進むごとに小さなお堂があり、太い線香からもくもくと煙が昇ります。

奥ノ院はそれほど遠くありませんでした。人々の熱気から逃れるようにしてやってきたものの、たいていの場合、奥ノ院は観光人が見て楽しいような場所ではありません。
開山堂と奥ノ院本堂があり、歴代山主の墓地があり、弁財天と、福徳大神という神様が祀られています。
それを見るともなく見てまわり、最後に短い石段をのぼった小高いところにある大黒堂に行きました。

中には立派な大黒天が祀られています。私は別段願い事をするわけでもなく、ただ手を合せてお辞儀しました。振り返ると、木立の合間から、奈良盆地と、その向こうの東の山並みが見晴らせました。

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そこには私の慣れ親しんだ寺々があります。生駒山からそれを眺めると、とても恋しい気持ちがしました。私は生まれも育ちも奈良ではありませんが、すっかりこの土地を故郷のようにあたたかく感じるようになっていました。

今年は新型肺炎が流行して、あまり遠出はせず、近くのお寺をお参りする日々が続きました。奈良市内にあるお寺にはこれまで以上に親しみをもった一年でした。

東大寺・興福寺・新薬師寺・白毫寺、それから西ノ京の唐招提寺・薬師寺、あと西大寺と秋篠寺。この8か寺には何度も何度もお参りしました。

奈良には古くて素晴らしいお寺がたくさん残っています。それは、お寺に仏像があることのおかげではないでしょうか。お寺に仏がいなかったら、千年も存続するなどという途方もないことが、一つ二つならあり得るとしても、これほどたくさん残ることはないように思います。

私は奈良の仏像が好きで、奈良に移り住みました。こうして奈良盆地を眺めていると、私は無性に仏が恋しくなりました。私が仏を愛おしく思う気持ちは、寶山寺の境内で一心に現世利益を祈る人の気持ちとは全然違うようで、実は同じなのかもしれません。

 

寶山寺駅まで降りて再びケーブルカーでふもとの町に戻り、そのまま生駒駅から近鉄電車で奈良駅へ行きました。

東向商店街を途中左に曲がって坂道を上れば興福寺の境内です。今はちょうど北円堂の特別開扉中。中には日本を代表する肖像彫刻と誉も高い、運慶作の世親・無著像。

しかし中には入りません。境内には南円堂、中金堂、東金堂、そして、五重塔。私は一つのお堂のなかで時間を費やすよりも、慣れ親しんだこの風景を眺めながら、ゆっくり歩きたい気分でした。

秋の鹿は肥えて、毛並も美しい。鹿はその綺麗な目でこちらを見つめ、お辞儀をします。私は両手のひらを見せて鹿せんべいを持たないことを告げます。

春には寂しかった境内も、だんだん人が戻ってきました。興福寺を過ぎて国立博物館の近くまで来ると、正倉院展を観終えた人がぶらぶらと歩き、鹿とたわむれます。そんな景色はどれも親しいものでした。

東大寺の参道はたくさんの修学旅行生で賑わっています。その間を通り、南大門をくぐって大仏殿の前まで行き、その前で合掌し、戒壇院のほうをぐるっと回ります。

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この土地は何だかとてものんきで、ほがらかでした。浄土もこんなふうに、賑やかで、のんきなところじゃないかと想像してみたりします。仏がいて、人々が集って、のんきに過ごす。

現世の利益を与えて生きる希望を抱かせるかと思えば、現世に浄土を演出して後生を羨望させる。仏のなさることは不思議です。

一手先すら見通すことのできない人間に、二手三手先のことは、ただ不可思議としか思えません。私は仏教の経典の、矛盾して、理解できないところが好きです。理解できないから、仏さまのことを有難くも、愛おしくも思うのかもしれません。

私は、自分はあと何年生きるだろうか、と考えました。
これから全国にある素晴らしいお寺をたくさん回ることもできます。そのことを想像すると胸がふくらみます。

でも本当は、すっかり故郷となったこの土地の数か寺にお参りして、そこで仏に手を合わせているだけで十分な気もしました。


― おしまい ―

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